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京丹後に佇む社
千石船 三社丸
江戸時代、湊宮には廻船問屋が多くありましたが、この模型「千石船 三社丸」は、廻船問屋の仙助ほか 氏子崇敬者四名が寛政七年正月(1795年)奉献したものです。
米を千石積めることが名前の由来となった千石船ですが、三社丸は帆の広さが二十反、米が千四百石を積める船の模型として作られています。また、三社丸という名前は当区の氏神、蛭児神社と摂社日御碕神社、大川神社の三社に因んだものです
明治時代までは旧暦正月十一日に海上の安全と豊漁を祈願する「船おろし」と言う行事が行われていました。
千石船の由来
五軒家の隆盛
天正十年、正親町天皇の御代。湊宮が守護一色氏の領地だった頃、この地には五軒家(木下家、本小西家、浜小西家、下家、新家)という回漕業を営む豪商たちが住んでいました。彼らはこの地域の大部分を屋敷として所有し、住民たちとは親方と子方の関係を築いていました。そして、子方たちは全員が五軒家に属し、彼らの所有する三十八隻の船に乗り込み、旭の港を拠点にして外国との貿易を行うことで大いに栄えていました。
幕府による規制
しかし、寛永十三年に幕府の命令により船の型が千石船に制限されます。また、当時の幕府は鎖国体制であったことから五軒家は国内貿易へと転じ、活動範囲を北はエゾ松前(北海道)から西は下関(萩)、兵庫(神戸)、難波(大 阪)、江戸(東京)にまで広げました。
その後、寛政十一年に住民たちが豊漁を祈願するとともに、五軒家の全盛期を記念して、この船の模型を土地の氏神様に奉納しました。
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